石コラムVol.20 墓と城

日本人は「三」で括るのが好きです。
「三本の指に入る」という表現にもそれは見られますが、天橋立、松島、安芸の宮島の「日本三景」をはじめ、偕楽園、兼六園、後楽園の「三名園」、名古屋城、姫路城、熊本城の「三名城」など、有名な名所もよく「三」で括られています。

姫路城、熊本城と並び日本三名城のひとつとされる名古屋城は(大阪城を入れる説もあり)、徳川家康が慶長14年(1609年)に築城を発令し、翌年の慶長15年(1610年)、将軍徳川秀忠が、西国20家の大名に普請(土木工事)の助役を命じて着工されました。

名古屋城は別名「金鯱城」などとも呼ばれ、大天守に上げられた金の鯱(金鯱)は、今なお名古屋の象徴にもなっています。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と歌われた通り、名古屋城なくして今の名古屋を考えることはできないでしょう。

その名古屋城に立ち寄った際に、最も興味深かったのは石垣です。石垣のあちこちに当時を偲ばせる各大名の刻文(刻紋)が付けられていました。

石垣工事の分担場所(丁場割)は細分化され、外様大名20家を互いに競わせる仕組みとなっています。そのため、各地から苦労して取り寄せた大切な石材の紛失・盗難を防ぎ、無用なトラブルが起こらないよう、石に紋を刻んで所有者を明確にする必要があったのです。

ちなみに自ら進んで天守台を受け持ったのは、築城の名手として知られる肥後熊本藩初代藩主・加藤清正だったそうです。加藤清正は名古屋城のほか、熊本城や江戸城、名護屋城(佐賀)、蔚山倭城(韓国)など数々の築城に携わっています。

 

以前ある市営霊園を見学した際、城そのものの形をした墓石を見たことがありましたが、考えてみれば、笠と宝珠を乗せた大名墓も城にちなんだ形だともいえるでしょう。

 

また、神道式の墓石には「奥津城」あるいは「奥都城」と刻まれます。一国一城の主である各家の施主にとっての建墓は、築城のようなものと言えるかもしれません。